私のお気に入り

 

静寂な寺院、東総きっての古刹・「来迎寺」

掲載日:2013-06-07

案内人:小見川区・久保谷 勝志


山門 奥の赤い大屋根が本堂 袴腰化粧の鐘楼

当寺は、浄土宗鎮西派総本山京都の知恩院の未寺で、香取市貝塚字羽ノ内に在ります。

寺伝によると、寛治6年(1092年)上総権(かずさごんの)介(すけ)千葉常将(つねまさ)の総建と伝え、かっては東庄町平山に在ったものを、建久9年(1198年)東六郎胤頼(森山城主)が現在地に移し,名僧明恵上人(みょうえしょうにん)の開基になります。

東総きっての古刹であり,老樹に囲まれた境域は7500坪を有し、かっては江戸時代の初期、この地の領主下総国銚子飯沼二千石 松平外記伊昌(これまさ)公の仮陣屋が置かれた一時期もありました。

その境内には、銅版葺きの山門(四脚門)、袴腰化粧の鐘楼、庫裏、寄棟造りの本堂は豪壮な拾間四面の大堂で、いずれも江戸中期から後期にかけて造営されたものです。

また、源頼朝公が鹿島神宮参拝のおりの憩いの場で立ち寄られたと伝えられ、永正5年(1506年)造立と伝える源氏三公(頼朝、頼家、実朝)の供養塔および慶長7年(1602年)造立の府馬時持(府馬城主) 、神野角助二公の供養塔、松平伊昌(これまさ)公の室於ふうの方などの墓所があります。於ふうの方は、徳川譜代の臣・酒井左衛門督忠次の次女で少女期は人質となって駿府の今川氏真の許で過ごすなど、波乱の人生を送りました。寛永15年(1638年)81歳で没。

寺宝には、同女にまつわる酒井・松平両氏寄進の仏画など多数が所蔵されています。

貝塚には他にも史跡がたくさんありますので、「まほろばの里」に立ち寄り説明を受けてから散策してみてください。

(参考:浄土宗鎮西派総本山知恩院は左甚五郎が魔除けのために置いた忘れ傘・鶯張りの廊下・・で知られています。)

小見川むかしばなしにでてくる「睦橋」(むつみばし)の話し

掲載日:2012-10-03

案内人:小見川区・久保谷 勝志

この睦橋がある場所は、県道28号旭・小見川線の田部の信号を左折して、両側田圃の道路を小見川区の久保地区に向かい、黒部川に架かる橋が「睦橋」です。

田部地区から久保地区(小高い山)へ向かう黒部川に架かる「睦橋」で平成9年竣工の現在の橋です。

なぜこの橋が睦橋と名づけられたかのお話しをしましょう。

小見川のむかしばなしから「睦橋」のいわれ

※以下引用

黒部川を跨いで、(旧小見川町)久保地先から(旧山田町)の田部に通じる道路に「睦橋」と名づけられた一つの橋がかかっています。
この橋のある千丈ケ谷津付近の耕地は早場米の産地として知られていますが、広い耕地だけに、昔は少しお天気が続きますと用水に困ったものでした。
 耕地を横断して黒部川が流れていますが、これとてもこの辺は上流で流れが狭く流量が少ない上に、皆で競って水を汲み上げるのですからたまりません。
たちまちのうちに流れは細くなって、その度に、久保村と田部村との間に激しい水争いが起こりました。
時には殴り合いの喧嘩から流血騒ぎも起こる始末です。
しかし、半月も日照りが続こうものなら、この黒部川にも一滴の水も流れません。
 毎年のように起こるこのような騒ぎに、たまりかねた両村の人達はそれぞれ代表を出して、何か良い解決方法はないかと話し合いをはじめました。
何度も話し合いがもたれました。
 田部にはもともと大きな溜池がありました。(※橘の堰)
そして、それまでは普段満水にしておいて、日照りが続いたりした時、この溜池の水を使っていたのです。
 それが話し合いの結果、黒部川の水を仲良く利用することを条件に、渇水の時には久保にもこの溜池の水を分けてもらえることになりました。
これには、田部の一部から自分達の村の水を他村にやることはないという強硬な意見が出たのですが、何度もの話し合いの結果、隣村どうしでいつまでも争って仕方がないだろうとやっと納得してもらったのです。

※この地図は「睦橋」の位置を示すために付け加えさせていただきました

ですが、久保までそれをどうやってもって来るが大問題です。
特に、黒部川の上をどう流すかが難問です。すると、誰かが、「この際、黒部川にかかっている土橋を木橋にかけかえ、その橋に大きな樋をつけたらどうだろう。」と提案しました。
皆、大賛成です。
 早速、村中総出で、橋のかけかえ工事が始まりました。そして三ヶ月、橋が立派に出来上がり、夢にまで見た田部の水がコンコンと樋を通って久保の耕地へ流れて来ました。皆、思わず「バンザーイ」と叫んで、大喜びです。
 それ以来、この橋が久保村と田部村の親睦のためにかけられたことから、「睦橋」と名づけられました。又、それからというもの、日照りが続きますと、この橋を通って、田部村の善意の水が久保の耕地を潤し、水争いもなくなりました。
 そして、それまで永い間なかった両村との縁談も次第に組まれるようになり、争い事のない平和な農村に変わって行きました。
 現在では、この橋もコンクリート製となり、田圃には東部用水の水が上がっていますが、橋の名はそのままのこっています。 (高橋 太一氏)
 

睦橋のいわれお解かりいだだけたでしょうか・・・。
2012年4月県立小見川自然の家主催の、歴史散策ハイキングに参加した時に、この「睦橋」に出会いました。橋の欄干に「睦橋」「むつみばし」と書いてあります。山田区の府馬の高台にある、府馬の大クスの展望台からは、「睦橋」がある千丈ケ谷津と呼ばれている一帯を眺めることができます。
また、その近くに、江戸時代初期小見川藩主(一万石)土井利勝が、領内の田部村、竹之内村の稲作を洪水から守るために、領民総出で築いた「土井の新堤」の場所があります。今は農道になっています。一度、これらの場所を尋ねてみてください。


「豊玉姫神社」と昔語りの海幸彦・山幸彦

掲載日:2012-01-16

案内人:小見川区・久保谷 勝志

香取市小見川区の南東地区の丘陵地には古墳時代中・後期の貝塚・「阿玉台貝塚」と「良文貝塚」とがあり、古代人の生活の面影を偲ぶことが出来る国指定史跡があります。

平安時代中期の武将平良文がこの地に居館を構えたことから、この地は旧・良文村の村名で呼ばれたことがありました。(明治22年から昭和30年まで)

このような場所(香取市貝塚)に「豊玉姫神社」があり、ここの祭神は豊玉姫尊(とよたまひめのみこと)で海上安全を祀る神社です。景行天皇(12代天皇)の皇子・日本武尊が東征の折にこの地に祀ったのがはじまりです。

豊玉姫神社
豊玉姫神社

古事記や日本書紀の語りに登場する海幸彦・山幸彦の物語で、弟の山幸彦は兄が大事にしていた釣り道具の釣り針を魚に取られ困っているところに、めぐり合せたのが海神の娘の豊玉姫尊です。二人は恋仲と成り3年間生活を伴にし、鯛の口からその釣り針を取り返しもらい兄の所に持って帰り、釣り針を返しました。

山幸彦と豊玉姫尊との間に生まれた子息と豊玉姫尊の妹君・玉依姫尊(たまよりひめのみこと)と結婚させ、その間に誕生したのが、初代天皇である神武天皇です・・・。

良文貝塚から昭和29年の発掘で出土したなかで、めずらしいものは香炉形顔面付土器がありました。昭和57年に県有形文化財に指定され、毎年文化の日に一般公開しております。一度見る価値があると思います。

香炉形顔面付土器(右)
香炉形顔面付土器(右)

阿玉台貝塚
阿玉台貝塚

良文貝塚の貝層
良文貝塚の貝層


「校庭の真ん中にあつて、130数年前から小学生の
成長を見守ってきた大樹・くすの木」
香取市立小見川中央小学校(一万石小見川藩の陣屋跡)

掲載日:2011-02-14

案内人:小見川区・久保谷 勝志

明治29年から大正10年頃の間に建てられた平屋木造の校舎が建つていた場所(写真1)は、「江戸時代は、この場所に一万石小見川藩の陣屋(10代最後の藩主内田正学)があった所です。この校舎は昭和45年まで使われていましたが、近代的な鉄筋コンクリートの校舎に建て替えられ、今日の校舎は(昭和47年から53年に竣工)・(写真2)のようになりました。

小見川中央小学校
写真1:この校舎は昭和45年まで使われていました。

人文字「小の字」の右(矢印)に、今も校庭の真ん中にある古木、長い間子供たちの成長を見守ってきた大くすの木が見られます。

児童数の変化を見ますと136年前・明治7年小見川中央小学校創立の時は、172名(男子137名・女子35名)で、近くにあった善光寺を仮校舎として始まりました。明治29年には男女総数550名・大正4年には832名(男子388名・女子444名)、昭和29年には1309名(男子678・女子631名)そして、ある企業の個人住宅建築ラッシュで児童数がピークになったのは昭和53年の1406名でした。平成22年現在は555名で、いかに今日が児童数が少ないかがわかります。

大クスの木
写真2:校庭のトラックのほぼ中心にある樹が「大クスの木」です。

また、昭和14年に建立した『二宮尊徳(金次郎)』像があります。児童の登下校時や、校庭で遊ぶ元気な子供達を見ています。

大クスの木
大くすの木(上に伸びていた太い幹は、今はありません)

二宮尊徳像
二宮金次郎の像


風格のある山門がある、千葉一族(東氏)の
祈願寺・芳泰寺(ほうたいじ)と森山城跡

掲載日:2010-06-27

案内人:小見川区・久保谷 勝志

芳泰寺の山門
芳泰寺の山門(山門の二階が鐘楼になっています)

 芳泰寺の所在地は、香取市岡飯田字寺谷で、香取市小見川区の東地区にあり隣町の東庄町との境界近くにあります。

今から808年前(建仁2年・鎌倉時代)に千葉一族の東胤頼という武将が、東庄町平山にあったお寺をこの地に移し、当初は平山寺と称した時期がありましたが、東胤頼ご夫婦二人の諡名(おくりな)から通性山真性院芳泰寺になりました。

曹洞宗のお寺で、東氏一族の祈願寺になっています。本堂は三回の大火に遭い、今の建物は弘化四年(1847年)の再建です。山門が二階建てになっており、その二階は鐘楼になっています。

風格のある山門、そして初代の森山城主東胤頼夫妻の墓石(五輪の塔)がありますので、一度訪ねてみてください。

森山城は、千葉常胤(千葉の介)の六男東胤頼が鎌倉時代の1218年(建保6年)に築城した、直線連郭式の山城でした。東西端は三城から根小(古)屋まで、620mあり、台地の標高は45m程あります。

芳泰寺山門の手前30mの所に禅寺特有の結界石(※石碑)が建っています。「不許葷酒入山門」とあります、「葷酒を食して(持って)、山門に入ることを許さず・・・仏道修行の妨げになるものの持ち込みを禁じています。」(葷とはニラ・ニンニク・ねぎなど臭気のあるもの・・の意)

※ 私には徳利(お銚子)の形をした石碑に見えました。

本堂と山門の屋根には千葉一族の紋である、月星の紋印が見られます。


禅寺特有の結界石


月星紋


前方の丘陵地が森山城跡(集落は岡飯田地区)


木内大神の例祭・毎年三月三日に執り行われる御神楽
香取市指定(昭和60年)・無形民俗文化財

掲載日:2010-02-01

案内人:小見川区・久保谷 勝志

木内大神の拝殿(右)と神楽殿(左)"
木内大神の拝殿(右)と神楽殿(左)

鎮座地は香取市木内字宮下1158-5番地で、小見川駅より西地区3kmにあります。

当神社の御祭神は豊受姫命(とようけひめのみこと)で、食物・穀物を司る女神とし崇められています。今から約1200年前の大同年間(807年)の創建で、豊受姫命を伊勢外宮より勧請しました。

千葉一族の木内胤朝(千葉常胤の子・東胤頼の二子)が社殿を造営したのが810年前の文治年間(1200年)で、諸族の祈願所となりました。

十二座神楽
十二座神楽

千葉一族の崇敬は日ごとに篤く、小田原の北条氏、小見川城主粟飯原氏、将軍徳川家康、そして小見川藩を治めた土井利勝や内田信濃守などが寄進し、武運の長久を祈られたそうです。

毎年3月3日の例祭には、県から供進使の参向があり、また当日は土地の神楽保存会員18名ほどの方による十二座の神楽舞の奉納が執り行われます。氏子の安泰・商売繁昌・五穀豊穣を祈願するもので、古格をよく保存するとともに、独特の郷土色が加わった神楽です。

現在の宮司木内氏にお会いし、話しを伺いました。わたくしからも皆様の御出でをお待ち申し上げます。


四季桜が咲く平良文所縁の古刹「白華山樹林寺」

掲載日:2009-10-13

案内人:小見川区・久保谷 勝志

樹林寺本堂と手水舎
樹林寺本堂と手水舎(ちょうずや)

香取市小見川区の南東に位置する五郷内の小高い山の中腹に、今から883年前(1126年)に千葉一族の祖・千葉常重が建立したことが始まりです。この臨済宗樹林寺の秘仏「夕顔観世音菩薩」は常重より六代前の上総・下総介の始祖・平良文が死に臨み、息子・忠頼に曰く、・・・

「我に会いたければ、畑に生えし夕顔の実を開けよ」と遺言しました。忠頼は早速塚の側の畑に大きな夕顔を見つけ、割ったところ、見事な観音像がでてきました。・・・・・この観音さまが良文の変現であり、千葉氏の宗廟と伝承されてきました。五郷内地区では、「干瓢を食さない」という変わった風習が残っています。町村合併まえは良文村といい、平安時代の武将・平良文が由来です。

良文は、関東で反乱を起こした平将門の叔父にあたります。

寺の本尊・夕顔観音は現在秘伝のため見物はできません。千葉一族の紋である月星紋が本堂で見られます。

四季桜
四季桜

この寺は、梅雨の時期は紫陽花(・・愛慈妻寺・・)が一面に咲く様が美しく、11月には名物の四季桜(市指定の天然記念物・樹齢600年といわれている)が淡いピンク色をして可憐に咲くのが見られるでしょう。


JR成田線の小見川駅舎と水郷駅舎

掲載日:2009-08-19

案内人:小見川区・久保谷 勝志

JR成田線小見川駅舎
JR成田線小見川駅舎

小見川駅の乗車人員は一日平均1,372人が乗車する駅です。2008年度実績の乗車人数(降車客含まず)

江戸時代から明治・大正そして昭和の初めまでは、物資の移送は利根川の舟運(高瀬舟・通運丸)で行われました。

鉄道が敷かれたのは、佐原までは明治31年に開通しましたが、小見川には開設されず、「利根川の水運」を高度に利用するしかありませんでした。

下りホーム銚子行き電車
下りホーム銚子行き電車

ようやく電車が小見川まで来るようになったのは、昭和6年11月佐原―笹川間、昭和8年に笹川―松岸間・・銚子)まで開通しました。(今も、成田-銚子間は単線方式です。)

この小見川駅舎は開通した昭和6年の建築で、78年間改装しながら今も使っています。上り、下り電車とも一時間に1本の運転ですが、通勤時間帯の朝6.7時帯は上り千葉・東京方面だけ一時間に2本の運転です。

小見川駅前からの接続交通機関は、千葉交通(バス)で旭市と佐原(2ルート)の方面へのバスが出ています。この他に香取市の循環バス(小見川線)が山田区事務所まで出ています。

JR成田線水郷駅・小見川ふれあいセンター
JR成田線水郷駅・小見川ふれあいセンター

もう一つの小見川区内にあるJR水郷駅・小見川ふれあいセンター(合築施設)は、平成5年6月に竣工したモダンな駅舎です。みなさんのふれあいの場としても利用できる、サロン・談話室・展示コーナーがあります。 小見川地区には縄文時代の中、後期の阿玉台貝塚良文貝塚があり、国の史跡に指定されています。また、郷土の出身者には歌舞伎俳優の初代松本幸四郎さん(墓所)や東京順天堂医院の創始者である佐藤尚中先生(誕生の跡地)など見所もあります。特に水郷の地ですので、ふな釣りのメッカとして、またカヌーやボートの競技場もあります。


ほたるが飛び交う里山(香取市岡飯田地区)

掲載日:2009-07-14

案内人:小見川区・久保谷 勝志

岡飯田地区
岡飯田地区の集落と小高い山は790年前(鎌倉時代)は千葉一族(東胤頼)の森山城跡です。

この地区のみなさんは自然保護に協力しており、稲には有機肥料を施し、除草剤は使っていませんので田にはタニシが、そして小高い山の麓の小川には山からの湧き水がチョロちょろ流れています。そのような環境の中で平家ホタルが生息しています。

梅雨期の後半とくに雨上りの夜は、ホタルが飛び交う好条件です。

ほたる
♪ほう、ほう、ほたる来い、あっちの水はにがいぞ、
こっちの水は甘いぞ、ほう、ほう、ほたる来い♪


山の麓のせせらぎ


利根川に架かる小見川大橋の話です。

掲載日:2009-06-22

案内人:小見川区・久保谷 勝志

小見川大橋
香取市小見川側から見た小見川大橋

小見川大橋は昭和48年8月1日に開通した橋です。

香取市八日市場地先と神栖市息栖を結ぶ、小見川大橋と息栖大橋は千葉・茨城両県の共同施工により、着工以来5年8ケ月の歳月と21億円の巨費を投じて完成しました。

小見川大橋の利根川に架かる延長は822.2m、息栖大橋は常陸川に架かる長さ378.2mあり、鹿島臨海工業地帯と成田国際空港とを結ぶ「成田・小見川・鹿島港線」で主要な地方道です。この橋は片側一車線ですので、朝夕の通退勤の時間帯は混みますので・・。

小見川大橋
茨城県側から見た小見川大橋

この二つの橋の完成により、長い間小見川と神栖間の交通の主役であった町営渡船が姿をけしました。 小見川大橋が架かる場所の利根川の川幅は400m(建設当時)あったようです。11基の橋脚と6連のランガー橋梁で支えられています。

毎年8月1日には小見川大橋の下流側500m程の所で「水郷おみがわ花火大会」が開催されます。


香取市三之分目(さんのわけめ)大塚山古墳

掲載日:2009-06-02

案内人:小見川区・久保谷 勝志

大塚山古墳
大塚山古墳

国道356号線を車で走ると車窓からかよく見え確認できます。その地番は香取市三之分目字大塚にあり、最近ですが周辺の樹木を伐採し見通しが良くなりました。

この古墳が築造された時期は五世紀(古墳時代)の中期と推定されています。この古墳の規模は全長121m、後円部径67m・高9.5m、前方部幅60m・高7.5mで、古墳時代中期の利根川下流域では下総最大、千葉県屈指の大きな前方後円墳です。

この古墳主は、日本最古の大豪族の葛城氏では・・。

航空写真
航空写真

大塚山古墳
国道356号線から見る大塚山古墳

国道356号線を小見川から佐原方向に走ると左に見えます。


香取市の小見川城山公園の『ツツジ』

掲載日:2009-05-06

案内人:小見川区・久保谷 勝志

小見川城山公園のツツジ
小見川城山公園のツツジ

さくらとツツジの名所、小見川城山公園には、4000本のツツジが咲き誇っています。この地、小見川城山公園は、城山の名前のとおり1199年(建久10年)頃、千葉一族の粟飯原朝秀が築城した小見川城の城跡です。

豊臣秀吉による小田原攻めで粟飯原俊胤は北条方についたため落城。その後、松平家忠が入城したが、1601(慶長6)年に廃城となっている。本丸跡と推定されている所に土塁、その周辺に空堀が残されています。

咲き誇るつつじ
咲き誇るつつじ

つつじのトンネル
つつじのトンネル


小見川高等学校の正門

5月連休の4日みどりの日に行って、写真を撮りました。公園と隣り合わせに建っている県立小見川高等学校の正門の所にもツツジが咲いていました。


小見川の市街地を貫く黒部川

掲載日:2009-04-14

案内人:小見川区・久保谷 勝志

黒部川の源流地は、3地点あり香取市志高・府馬、おとなりの東庄町東和田そして旭市溝原からの流れを合わせて小見川の市街地を貫き、利根川と平行して東流した後東庄町に架かる利根河口堰(潮止め水門)を出て、利根本流と合流します。

流路延長18.1km、流域面積48k㎡の一級河川です。 徳川家康による利根川東遷事業により、この辺一帯は新田開発が盛んになり黒部川はお米・お酒などの積み出し河岸として水運で栄えたのは、江戸後期・明治・大正、そして昭6年佐原と松岸間の鉄道が開通するまでのことでした。


おみがわの老舗・谷屋呉服店(夢紫美術館)

掲載日:2009-02-19

案内人:小見川区・久保谷 勝志

谷屋呉服店と土蔵
(谷屋呉服店と土蔵)
(店員さんが説明してくれますので、申し出てください。)
この土蔵は築120数年の建造物です。

小見川にも佐原と同じように、利根川の舟運で栄えた老舗が今も先祖からの家業を引き継いで商売を続けているのが谷屋呉服店です。創業は今から約160年前の嘉永元年(1848年)で、浦賀に黒船(ペリー)が来航(嘉永6年)した少し前の頃です。

現在の当主6代目はお店の袖にある大和合掌作りの土蔵を改装して、夢紫美術館をオープンしたのが1996年(平成8年)でした。

アカニシ貝(左)と染色した絹糸
(アカニシ貝(左)と染色した絹糸)

夢紫美術館
夢紫美術館

この美術館には、高貴で貴重な色の宝石といわれる貝紫染色の染織工芸品が収蔵されており、一般に公開されています。

貝紫とは巻き貝が持つパープル腺で染色する技法で、絹糸を染色すると紫外線を吸収して鮮やかな紫色に発色します。館内には貝紫染色による江戸友禅染の着物・帯・染絵額などが展示されています。


おみがわ(小見川)が生誕の地、
江戸歌舞伎界の名優・初代松本幸四郎

掲載日:2009-01-14

案内人:小見川区・久保谷 勝志

黒部川沿いの街中にある善光寺(天台宗)に千葉県指定史跡・初代松本幸四郎の墓所があります。


小見川 善光寺山門


小見川善光寺の墓所

今から335年前(1674年)延宝2年(四代将軍徳川家綱の時代)に香取市外浜(とはま)の嶋田 家に生まれました。幼名を小四郎といいます、

元禄元年15才の時に江戸に出て歌舞伎役者、久松多四郎に弟子入りしました。後に「松は霜雪に操を変えず、本は本心の本の字」として松本姓にしたといわれ、松本幸四郎と名前を改めました。

50才の時に「弁慶」の役で大当たりし、弁慶の上演回数は実に千数百回に及び、2代目の市川団十郎と並び当代の名優と称されました。享保15年(1730年)57才でなくなりました。墓所は香取市小見川善光寺の他に、東京都文京区に在る栄松院にもあります。

昭和40年4月に千葉県の有形文化財史跡に指定された記念に、石碑が建立されそこには生い立ちと歌舞伎界の名優であった事が刻まれています。

女優の松たか子さんのお父さんが9代目松本幸四郎さんです。


善光寺に墓参に来たときの
9代目松本幸四郎さん(左)


栄松院(東京文京区)にある
初代松本幸四郎の墓所


まほろばの里~田園空間博物館~

掲載日:2008-12-09

案内人:小見川区・久保谷 勝志

まほろばの里案内所
(まほろばの里案内所)

縄文時代中・後期頃の貝塚(国指定の史跡)がある阿玉台・良文地区へ歴史散策に出かけてみましょう。この建物が平成20年4月に完成オープンした、香取市小見川区貝塚にある「まほろばの里案内所」です。

案内所入り口
(案内所入り口)

場所:香取市貝塚1767-1(小見川南小学校から500m)

開館時間:9時から16時

休館日:月・火曜日(国民の祝日に当たるときは、翌日)・年末年始

展示室には、貝塚から出土した土器や古代人が食べたものや、農家で使ってきた昔の農具等が展示されております。案内人さんにまほろばの里の散策コースやその歴史を聞いてから出掛けるとよいでしょう。

縄文式土器
縄文式土器

田村式麦播機
田村式麦播機

田村市太郎氏(故人)
田村市太郎氏
(故人)

香取市八本出身者の田村市太郎(故人)さんが考案製作した麦播機です。話は70数年前のことで、麦の種播きをいかにしたら等間隔に、しかも二条播きが出来るかを考えて製作した優れものです。当時の香取郡農会から発行された、考案証明書が保存されています。多くの農家で使用され、いまも使われているようです。

主な歴史の施設

など、まほろばの里案内所から1km四方の範囲に多くの史跡や田園空間が見られるでしょう。

香炉形顔面付土器
香炉形顔面付土器

良文(村)貝塚
良文(村)貝塚

阿玉台の丘陵から西に約2km先に行くと、山田区の府馬丘陵に着きます。その場所にも同じ田園空間整備事業で整えられた「府馬大クス展望公園」があります。足をのばしてみてはいかがですか。


2010年「ゆめ半島千葉国体」

掲載日:2008-10-23

案内人:小見川区・久保谷 勝志

この場所が、2010年「ゆめ半島千葉国体」のボート競技場になります。

黒部大橋付近
(黒部大橋付近)

この小見川ボート場は香取市阿玉川2266番地の地先に位置し、黒部川に架かる黒部大橋付近がボート競技場になります。

(右の写真)昭和48年若潮千葉国体から、37年ぶりの開催になるようです。

この場所には小見川高校のボートの艇庫があり、ボート部の生徒が元気な掛け声で練習しています。

小見川高校生の練習
(小見川高校生の練習)

1本のオールで漕ぐスイープ種目の舵手つきフォア(漕ぎ手4人と舵手1人)と、2本のオールで漕ぐスカル種目の舵手つきクォドルプル(漕ぎ手4人と舵手1人)、ダブルスカル(漕ぎ手2人)、シングルスカル(漕ぎ手1人)の4種目があります。

各種目男女とも距離1,000mで、判定所のある反対側から1、2・・・の順に並んだ6コースの水路で競技が行われます。


昔が偲ばれる建物(ちば醤油小売店舗)

掲載日:2008-09-21

案内人:小見川区・久保谷 勝志

ちば醤油の小売店(昔を偲ばせる建物)
ちば醤油の小売店(昔を偲ばせる建物)

ちば醤油(イリダイ醤油)は、今から150年前(1854年)、浦賀にペリーが来航した翌年に、大村屋商店として小見川で醤油の製造をはじめました。

利根川の舟運で栄えた小見川河岸(黒部川)の中心に醤油工場がありました。

昭和39年に大村屋と旭市の飯田本店と合併し、ちば醤油が誕生しました。生産しているものは、醤油・たれ・つゆなどの調味料と白瓜(しろうり)の漬物(小舟漬)の生産・販売をしています。この小売店の建物(旧本社)は130年前の建築で、横に袖蔵(そでくら)(醤油蔵)があります。

工場は昭和46年に小見川西地区の工業団地に新設し移転しましたが、この建物はしばらく本社事務所として事務を執っていました。その後事務所も新工場内に移転しましたので、自社製品の小売店舗とし営業しております。

町中を流れる黒部川
町中を流れる黒部川

お店の目の前が町中を流れる黒部川です、鉄道が小見川に開通したのは昭和6年でした。それ以前は東京(江戸)への大量な物資の運搬は車と船にたよるしかありませんでした。この川の荷揚げ場(だし)から船に醤油樽を積み込む姿が有ったのは遠い遠い昔になりました。

利根川の舟運で栄えた河岸で現在も醤油の生産をしているところは、銚子市でヒゲタ・ヤマサ 醤油、東庄町で入正醤油、香取市小見川でちば醤油、野田市でキッコーマン醤油そして、館林市 で正田醤油があります。


松尾芭蕉の句碑

掲載日:2008-8-20

案内人:小見川区・久保谷 勝志

古くからある小見川区内の芭蕉句碑を見てきました。

清水寺の碑

一つ:清水寺(せいすいじ)香取市虫幡1237

「観音の甍見やりつ花の雲」

芭蕉

虫幡の高台に、子育て観音で知られる天台宗の古刹清水寺があ る。立派な本堂の左手前に、高さ128センチ、幅85センチの根 府川石が、高さ20センチの台石の上に立っている。

建立は明治15年(1882年)である。

金刀比羅神社の碑

二つ:金刀比羅神社(香取市小見川641)

「時雨るるや田のあら株のくろむほど」

芭蕉

大根塚道ノ下の黒部川沿いに、文化2年讃岐金比羅宮より勧請 された神社で、農業殖産・漁業航海の神徳を持つ神を祀っていま す。句碑は高さ170センチ、幅130センチの句碑が、高さ26セ ンチの台石の上に立っている。

建立は明治20年(1887年)である。

弁天宮の碑

三つ:弁天宮(香取市小見川492)

「明ぼのや二十七夜もみかの月」

はせを(芭蕉)

町中を流れる黒部川の湖畔(北下宿)に水神宮があり、その小 さな鳥居脇の右側に、川に向って芭蕉句碑が立っている。

高さ140センチ、幅92センチの根府川石である。

建立は文政末から天保初期(1825~1835年)と推定。


清水寺
清水寺

金刀比羅神社
金刀比羅神社

弁天宮(水神宮)
弁天宮(水神宮)


昔ながらの森を未来に残そう!

掲載日:2008-7-26

案内人:小見川区・久保谷 勝志

小見川竹炭研究会(千葉県里山活動認定団体)のみなさん

竹炭の窯入れ作業
竹炭の窯入れ作業

香取市岡飯田にある竹山を訪ねてきました。竹炭を作る窯に、手を加えた竹材を入れる「窯入れ」の作業中でした。現在この小見川竹炭研究会には、30名程の会員のみなさんが参加しています。(竹炭と竹酢は多方面に効用されています。)

この他に、竹材を使っての「竹細工教室」{花器・飾り物・紙(水)鉄砲・笹の葉で昆虫作り等}や付近の里山での自然を満喫しながらのそうめん流し等の催しやほたる観察などの活動もしております。

竹細工の作品
竹細工の作品

会長・武崎さんの竹山
会長・武崎さんの竹山


千葉県立水郷小見川少年自然の家での
「やさしいカヌー」

掲載日:2008-6-25

案内人:小見川区・久保谷 勝志

小見川少年自然の家
水郷小見川少年自然の家

長い名前の施設です、「千葉県立水郷小見川少年自然の家」には構内にカヌーを浮かべることが出来るプール(ミニハーバー)があります。ミニハーバーは半ドーナツ形を少し大きくしたもので、ここに一人乗りと二人乗りのカヌーを浮かべて乗れます。6月1日(日)は一般公開日でしたので大半が親子ずれの人たちで、120名程が参加してくれました。

ライフジャケットと子供さんはヘルメットを着けて乗ります。カヌーを漕ぐ櫂(パドル)をうまく使いこなすのに多少時間がかかります。少し上達すると黒部川に出てミニツーリングを楽しめるコースもあります。


水郷おみがわふな釣り大会

掲載日:2008-6-2

案内人:小見川区・久保谷 勝志

釣り
黒部川ふれあい橋付近(前方の橋は黒部大橋)

5月25日(日曜日)
あいにくの天気の中でしたが、第27回の水郷おみがわふな釣り大会が行われました。

早朝5時半受付開始の頃は大雨でしたが、6時開始の合図で参加者137名(一般男性135名・女性0名・子供2名)が、黒部川と小堀川の指定された範囲内のお好きなポイントに入り、昨夜準備した仕掛けを竿につけ釣り開始です。途中雨も小降りになりました。

14時検量です。昨夜からの雨で水位も高く濁りがありましたが、参加137名のうち釣果があった人がなんと107名ありました。10匹総重量一位の方(小見川区)の釣果は7Kgでした。大物賞は42cm(へらぶな)でした。 主催は水郷小見川観光協会・共催として香取市・小見川銀鱗会の皆さんの協力を得て無事終了しました。

釣果上位者の表彰式


黒部川と利根川そして常陸利根川を結ぶ
阿玉川閘門と小見川閘門

掲載日:2008-5-15

案内人:小見川区・久保谷 勝志

閘門
(黒部川側ゲート)閉

閘門
(利根川側ゲート)開

閘門の役目は、「運河・河川などの、水面に高低差のある場所で、水面を昇降させて船を行き来させるための装置。閘室とよぶ前後を扉で仕切った水面に船を入れ、扉の開閉によって水位を昇降させてのち、一方を開いて船を進める。」とあります。

現在の阿玉川閘門(黒部川―利根川)が竣工したのは昭和34年9月でした。 今は電動式鋼製ローラーゲートを開閉し、船舶の行き来が安全にしかも水位差による流れに左右されずに通過できるようになりました。

合掌式水門
以前の合掌式水門

それ以前は合掌式水門(鉄扉)で、しかも手動で開閉したそうで す。利根川の上流部で大雨が降ったり、台風が近づくと消防団員の 力を借りてハンドルを回し、水門を閉めました。

(東庄町の河口堰が出来る以前は、利根川の塩分上昇があると稲作に影響しますので水門を閉めたそうです。)

小見川閘門(利根川―常陸利根川)は、昭和38年7月に竣工しました。

小見川大橋が昭和48年に開通しましたので、それ以後は小見川と息栖・高浜間の町営渡船が廃止となり、また舟で対岸の田んぼに物を運ぶ情景も見られなくなりました。現在この閘門を通過する船は、漁業船と釣舟・レジャー船の行き来が主になりました。

閘門の周辺は絶好の釣り場ですが、子供だけで行くことは危険ですので注意してください。


東京順天堂医院を開設した名医
―― 佐藤尚中(山口舜海[しゅんかい])誕生の地

掲載日:2008.5.1

案内人:小見川区・久保谷 勝志

佐藤尚中誕生の地
尚中誕生の旧宅跡の内浜公園

現在、内浜公園(香取市小見川450-1)になっている場所が尚中の誕生の地です。文政10年(1827年)小見川の内浜で、小見川藩一万石内田候の侍医山口甫遷[ほせん]の次男として生まれました。

舜海16才の時、シーボルトの弟子であった蘭方医佐藤泰然の門に入った。師と共に佐倉藩主堀田正睦[まさよし]の招きにより佐倉に移り、そこで泰然の養子となり佐藤尚中と改名しました。

34才の時に長崎に留学し、ポンペ(オランダ人医師)に就いて蘭学を学び、外科手術には特にすぐれた技量を示しました。2年間の留学を終え佐倉に帰り、佐倉順天堂の経営にあたりました。

佐藤尚中
佐藤尚中の写真

明治2年(1869年)43才の時には、大学東校(後、東京大学医学部)の主宰として迎えられ、大学大丞大博士大典医[だいがくだいじょうだいはかせだいてんい](大学総長・日本で唯一の大博士・明治天皇の侍医頭)となりました。※(写真の奥に立っている記念碑に明記されている)

明治6年(1873年)すべての官職を辞めて後、民間人の病院である東京順天堂医院(現・順天堂大学)を建て、医学界に多大な功績を残しました。

明治15年(1882年)56才で他界した。この誕生の地は尚中の甥にあたる山口翁助[おうすけ]が東京に転居する明治23年まで続いた。


境宮神社(通称うぶすなさま)の十二座(面)神楽

掲載日:2008.4.10

案内人:小見川区・久保谷 勝志

境宮神社の神楽殿
境宮神社の神楽殿(3月23日・日曜日)

鎮座地は、成田線水郷駅より南1.8キロ香取市一ノ分目字小室台532番地の丘陵地にあります。

この神社のお神楽は、昭和43年を最後に20年間伝承が途絶えた時期がありました。

「江戸時代から200年もの間、連綿と受け継がれてきた伝承芸能を、自分たちの代で失って、子どもたちになんて言い訳できる・・・」

これがすべて。再興へ向けて動き出した全員の気持ちだったようです。

昭和60年から再興に向けての練習が始まり、途中幾度となく苦渋を味わうこともあったが、その努力が実り昭和63年3月27日、遂に奉納の日を迎え、十二面の舞を復活した。この事をお話しておきます。

境宮神社の社名については旧小見川町が古代、海上郡の領域にあった頃、本社が香取郡と海上郡との境にあったことから名付けられたと伝えられている。

※3月23日(日)12時から始まりました、集まった人たちの半数はこどもたちでした。


私たちの大切な乗りもの「富田の渡船」

掲載日:2008.4.1

案内人:小見川区・久保谷 勝志

富田の渡船・おみがわ丸

小見川大橋が開通したのは昭和48年8月でした。

それから35年経ちましたが富田の渡船は、いまも毎日朝7時から夕方5時まで、ほぼ一時間おきに運行しています。利根川の川向こうの新田地区に住む私たち児童・学生とくに小学生の通学にはなくてはならない交通手段です。(富田の渡船・おみがわ丸)新田地区(富田・三ノ分目・一ノ分目)には小見川北小学校利北分校がありますが、高学年の5.6年生は本校の小見川北小学校へ通います。また、中高校生や富田の病院に通うお年寄りが乗るようです。

この渡船の運航管理は、北地区渡船組合が行っています。現在のおみがわ丸の船長さんは小川さん(72才)です。小川さんにお話を聞きました、「6年目になりますが、毎朝会う12名ほどの子供たちの顔を見ると元気をいただく」そうです。

利用金額表(片道料金)

大人
80円
自転車
100円
バイク
120円

運行時間(富田地先発)

  1. 7:15~9:00 随時
  2. 10:00
  3. 11:00
  4. 12:00
  5. 14:00
  6. 15:00
  7. 16:00
  8. 17:00

富田と富田新田の発着所の川幅は350m(所要時間5~6分)ほどあり、対岸にお客さんが居ると白旗が立つそうです。富田の渡船場から小見川大橋までは2kmほどの距離があります。


水の郷ふれあい橋

掲載日:2008.4.1

案内人:小見川区・久保谷 勝志

水の郷ふれあい橋

水の郷ふれあい橋は平成10年3月に開通しました。

場所は黒部川と利根川本流との閘門である阿玉川水門に通じる水路に架かっている橋です。

ふれあい橋の概要ですが

の橋で、近くにある県立水郷小見川少年自然の家の半球面体の建物(プラネタリウム棟)とマッチした光景を形成しています。

この橋が出来たことで、黒部川沿いと利根川の堤防を一周するウォーキングコースになっており朝・夕には多くの方が歩いています。※ふれあい橋は車は通れませんので・・手前に駐車して歩いてください。

橋には照明装置が備えられており、各種水上スポーツ大会が開かれる夏にはライトアップも予定されています。また、この周辺は絶好な釣場としても人気のある場所です。

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