예술, 문화

카토리의 예술과 문화 (일본어입니다. 日本語です。)

다양한 예술과 문화를 소개합니다.

심신을 맑게하는 백사 사와라의 소문 이야기 (五喜田正巳編)

마을은 노를 저어 온다, 노래로 온다. 물의 고장 오미가와 이야기(篠塚榮三著)

身を清める白蛇

『佐原のうわさばなし』 (五喜田正巳編)より

県道の多古線を通らずに、牧野のバス停から田圃道へ出て、丁度、観福寺の山を迂回するようにして大根部落へ出るところ、香西川に架かっている橋が日の出橋と言いますが、東側には田圃をへだてて「滝」という山があって、そのはるか向こうには、釜塚部落や多田部落に連なる丘陵があるだけで、とても日の出など見えそうもありません。その丘陵に陽の昇る頃は、子供達の登校の時間でもあり、夏の晴れた日などは、暑くなり始める時間で、日の出という清々しい気分にはほど遠いかも知れません。

いまはもう黄泉の人ですが、釜塚の篠塚某という老人の話によると、その頃は丸太を三本ほど渡したような橋だったが、大根部落だけでなく、返田や小野といった部落の人達の、佐原町への近道だったのです。特に、佐原での祭見物には、さきの部落の人達がこぞって通ったとも言われています。

あるときのこと、祭り酒を飲みすぎた男が、夜明け近くになって通りかかると、滝と言われる山の空が、うっすらと明るいではありませんか。

「おやおや、もう朝になるのかい。それにしても、日の出に逢うなんて珍しいことだ」と、酔いの手伝ってか、上機嫌になって帰り、このことを家の人に話をしたのですが、誰も取りあってくれませんでした。

それからまた数日が経ちまして、今度は部落の若い人達が三人ほど、映画を観ての帰り、いつもの近道でこの橋を通りかかると、曇っているのに滝山の空がぼんやりと明るいのです。「や、もう、日の出か・・・」と一人が言うので、別の一人が「馬鹿言え、映画観ただけで夜が明けるもんか」「それなら、あれは何だ」と言いながらも気味悪くなり、早々と帰ったそうです。数日まえに、酔った男のこともあり、この話が評判になりましたころ、聞きつけた西蔵院の住職が、「それは白蛇が滝の水で、身を清めているんだよ。あの橋の向うの山は、この寺領でな、滝のお不動さまを見守っている主なんだよ」 と言う訳で、理由としては納得したものの、人々はまだ釈然としませんでしたが、私にはよく判るような気がするのです。

橋から見える東側の山は、返田部落の方からつながっていて、その先端を人々は「滝の山」とか「滝」と呼んでいたのです。勿論その中ほどには小さい滝があり、草木が繁り、誰彼となく、五米もの白蛇を見たなどと言う人もいました。

当時は、牛馬の飼料にするために刈草を集めるのですが、この山の周辺から集めた草の中には、何匹も何匹も小さな蛇がいたと言われています。沢山の小さな蛇といい、白蛇の話といい、滝の流れを持つ三十米そこそこの山が、人々の間では、妖しい別世界の山のように見えたことでしょう。

この頃は、田圃など排水管理が行き届いていたためか、山も固く締まり、そのためか滝は涸れ果て、蛇の姿も見えなくなったといいます。橋は橋で、コンクリートになりましたが、この橋の真中に立って、往時を思うのも楽しいことかもしれません。

文:五喜田正巳さん

街は櫓で来る唄で来る

『水の都おみがわ物語』(篠塚榮三著)より


大橋から神橋方面をのぞむ
右便利屋船鈴木丸 左遠方若松丸(昭和10年撮影)

祇園祭の宵、羽根川の下座連が昭和初期、市原三朗氏の作詞した「小見川小唄」のメロディーを流し始めると、私達オールド・タイマーは、何とも言い様のない、ノスタルジアに包まれて、想いは遠い昔に走るのです。

県下に未だ鉄道の無かった時代、小見川は物流の大動脈であった利根川の河港として物資の大集散地であり、その商圏は九十九里沿岸に迄及び、黒部川は高瀬船やサッパ舟・伝馬など大小の舟で賑わい、収穫期には米俵をつけた小荷駄が川の両岸に列を作って、町は活気に満ちていました。不夜城であったという堂の前、三業地の起源も、そのあたりにあったと思われます。

総武本線と、成田鉄道の佐原迄の開通によって、広かった商圏の外縁を失って町勢はやや停滞した状況で大正期を迎えますが、ここで敏腕を持って聞こえた石毛己之助町長が登場し、新田橋元に共同倉庫を建設して挽回策を計るなど、河港小見川は健在の儘昭和を迎えるのです。私の物心付いた頃の黒部川は透き通る程の奇麗さはありませんが、それでも、川底の藻が見える程度の透明さがあり、川の水は町の人々の生活用水として使われていました。

概して川の東岸は地下水脈に恵まれなかったので、川沿いの家は川に井戸を作ったり、川の水を汲み上げ瓶を利用した濾水器を通して飲用に使ったり、洗濯は勿論のこと、米とぎや、天秤棒に桶やバケツをつけての風呂の水汲み等、ダシはいつも賑やかでした。

川には小はメダカ・タナゴから鮒・鰹・マルタ(学名・ジュウサン・ウグイ)・ヤキ(クチボソ)などが泳ぎ、川岸の石垣の隙間には鰻が住みつき、ダシの杭にはハゼが吸い付いています。静かな朝の川面を銀の糸を流すようにサヨリ(ヨドともいう)の群れがスイスイと上ってゆきます。美しく美味なこの魚を捕らえようとしても、用心深く敏捷でなかなか子供の手に負えません。魚の種類ごとの特性を知り、それに合った仕掛けや餌を用意するには工夫と経験が必要で、それだけに、大物を釣り上げた喜びは格別で、黒部川は子供達にとっては魅力ある遊び場でした。

何処のダシの前は深い、何処は浅いといった知識は、潮の干満と並んで釣りの基礎知識でもあり、転落時の予防知識でもあったのですが、原則として深いダシの前は良く釣れるので、釣りに熱中した子供が川に落ちアップ・アップする騒ぎもよく起こったものです。

然し、前述のように川は住民の生活に密着しているので常に人目があり、大人が飛び込んで助けるのと、子供達も夏場、小堀川の長助河岸やハ丁面の蒲田に赤旗で区切って作られる特設プールに通ってバタバタやり、学齢頃には結構泳げる様になっているので、殆ど水死事故はなかった様です。然し川沿いの家では、小正月のダンゴならしと云う、楢の木の枝に餅を木の実のようにつけて立てる際、河童が子供を川へ引き込まない事を願って、いくつかの餅を進呈するイベントをしました。私も姉たちと二つ三つの餅をダシから川へ投げ込み、決して後を振り返らず一目散に家に駆け戻ったものです。

この様な水の安全への願いは、単に子供の世界だけに限りません。現在も、小見川には北下宿の水神宮と弁天宮、外浜の浪切不動尊、大根塚の琴平神社などの水に縁の社寺がありますが、生業と水の安全に関連の深い人々の信仰から建立されたものと思われ、平常は穏やかな恵みの川でありながら時には洪水となって、収穫や家屋、人の命をも奪う川に対する、当時の人々の感謝と畏怖の念を現していると申せましょう。

琴平神社の縁日は、新町通りから大根塚にかけて人の列が続き、岡田さんの飴の店が開き、三業地の姉さん達が顔見世をかね、シャナリ、シャナリと練り歩くなどなかなか華やかでした。

春先や秋に大雨が降り黒部川が濁ると我が家の番頭さんの投網と四ツ手網の出番です。鯉や鮒の群が黒部川を遡上するからです。投網は日中でも獲物がありますが動きの遅い四ツ手網は夜が本番です。暗い水面を分けて、ゆっくりと網が上がって来ると、ザワザワという水音と共に鱗が光ります。時にはゴロリと一貫目(三・七五キロ)もある大鯉が入ったり大きな爪に黒い毛を生やした川蟹がゾロゾロと一団で乗っていたりします。手提げライトで照らし、クモで取り込むのですが鮒は多すぎ、小物は残して漁を続けます。

川蟹は見かけによらぬ珍味なので釜茹でにして忽ち食べ尽くしますが、鯉は、洗い、鯉コク、甘煮等にしても家中では食べ切れず生きている内に魚屋に売って店の皆の小遣いと網の補修費にします。然し鮒は捕れすぎるので商品価値が無く、庭に火をおこしトタン板の上で焼き、日に干して甘露煮にする外、食べきれぬ分は出入りの農家にあげました。

歌人斎藤茂吉の日記に

  昭和十年一月五日 土曜 晴

午前八時半 上野駅ヲタチ、山口、佐藤二君ト小見川ト云ウ水郷ニ行キ林屋ニ泊ル。

利根川ノ沿岸ニテ大イニヨシ。そば屋、菓子屋、舟ニテ行、砂丘ナドヲ見ル。夜ハ鰻酒ヲシテ飲ム。

とあります。

余りにも簡潔なので想像を交えて敷衍します。恐らく二人の門人の内、どちらかが小見川を知っていたのでしょう。昼頃小見川駅に着き、林屋旅館からの出迎えを受け、タクシーには乗らず、役場、小学校の間を抜けて神橋を渡り、矢口庵に寄り、評判の天麩羅そばを注文したと思います。令息茂太先生の自伝によると茂吉先生は、食欲旺盛な方だったので、その後住吉屋に寄って、名代の餅菓子、鴬餅、今坂、ワッフルなど買い込まれてから林屋に入られたのでしょう。その後三協丸、寺嶋丸のどちらかの遊漁舟に乗って鳥栖に行き、渡船場の東南にあった高さ十五米の小砂丘で遊ばれたのです。

林屋旅館と嘉重(平間川魚店)は黒部川を挟んで向き合っており、注文は大声で用が足りたそうです。戦前嘉重の鰻蒲焼は天下の絶品で、茂吉先生もさぞ堪能された事と思います。

戦前は度々東京相撲の興行が開かれました。

駅に着いた力士の一行は必ず街の大通りを旅館まで歩いて客寄せのデモ行進をしました。揉み上げの剃り跡の鮮やかな、映画の侠客その儘の大関清水川が、明荷を担いだ弟子を従えてノッシノッシと川端通りを歩く姿は錦絵から抜け出た様で、家々から「ヨウ次郎長親分」と声が掛かりました。

茂吉先生や清水川が泊まった林屋旅館の斜め前、渡船の発着する河岸には、川面にせり出した柳の大樹があって、風にそよぎ、小見川小唄の作詞者もそれを見て、「街は櫓で来る唄で来る 唄は柳の陰を来る」と謡ったと思われます。

文と写真:篠塚榮三さん(小見川在住)


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